サマリーレポート -JP

霊魂の性質

教授・神学者 エルマー・サルマン

サルマン教授は、この発言によって、人の本質的要素を明確にすると同時に、触れて感じることのできない概念である「霊魂」という複雑な実在へと近づく道のりをつくっている。

まず初めに、響きや音楽性をもつ「人の声」、主観のあらゆる表現変化をもつ「顔つき」、自分として認識されることを願う独自性としての「名前」、体験が変化するなかでも、その人自身の思い出や語りとして年月の経過のうちに続く「連続性」、という4つの現象的アプローチが示される。

次に、霊魂を縦の切り口で眺める次のつの視点・糸口が挙げられ、霊魂は、これらの原理、指標、リズム、自覚であるとしている。①生命の運動と目的論、②不可解なオーラ、③表現性や受容性、④他者との近さ(親近感)や生かされる違いとしての差、⑤自分や他者から識別される同一性の意識、⑥両極的にとらえるための自分との間隔(自己距離)、⑦自分自身もしくは世界とともに何かを始めることのできる力、⑧口で言い表すことのできない自分自身や他者との関係の奥深い背景。

続いて、風配図(ウインドローズ)を用い、上下左右へと開く4つの生命の放物線によって、霊魂の輪郭を横の切り口からも眺めている。それは、杯のように受けとる形でその人の起源へと解放された放物線から、神へと開かれた至幅の孤独の放物線、そして期待される未来への放物線と深淵の領域や欲動性の領域のような共有される元型の放物線であり、これらすべての中心には、あらゆる次元や放物線と内部でつながっている「意識」が存在する。

また最後には、単に自分自身との関係を探るだけではなく、自分と世界との対話の条件を探っていく必要性があげられ、我々が、共鳴箱や仲介の場をつくりだし、異なった世界間の通訳者となって、共有の霊魂つまりこの世の一つの霊魂をともに見いだしながら、この条件を探っていかねばならないと結んでいる。

おわりに、神経症的観点から一考察。「人は、あらゆる事から身を守るために、自己指示的な世界に引きこもり、誰からも傷つけられず、誰からも問われることのない状態になる。ここで、ある一つの型に変化し、霊魂を失う。」

 

キリスト教徒の霊的体験における聖霊の存在と働き

司祭 クラウディオ・M・ベラルディ

ベラルディ神父の寄与は、聖書や教会の教えからの示唆に富んだ引用によって、キリスト教徒のいのちにおける聖霊の働きを概括的かつ明確な方法で示し、神秘学者たちの記した〈神秘体験〉を、霊魂の機能においてその活動を指揮・停止させるために介入する聖霊の業として明らかにしながら、霊的いのちの認識へと導いている。

霊的識別とは、一般に「聖霊の光によって神のみ旨を見極めること」と理解されているが、神父は、次にこの「霊的識別」という問題を取りあげ、識別と《認識》という2つの用語の意味分析から、これを考察している。これら2つの用語は、十字架の聖ヨハネが彼の著作の中で使用し、特に神との一致の恩恵に授かるよう呼ばれた霊魂たちの浄化の歩みを示す神秘体験に適用したものである。

続く分析では、霊魂のさまざまな形の《知覚》として十字架の聖ヨハネが示した神秘体験〈ヴィジョン(示現)、啓示、神のことば〉の教説や分類を見直している。

また、最後に、霊的識別の基準が記され、特に重要性によって分けられた霊的指導者たちに向けたものと、ヴィジョン(示現)を受ける霊魂に関して常に信仰の道を選択していくためのものが、総体的かつ明確に示されている。

 

聖書的根拠と聖人たちの生涯における悪魔学の歴史

司祭 リッカルド・ペトローニ

ペトローニ神父は、その前半の発言において、人間との対比からサタンの性質と働きを知ることのできる聖書のいくつかのエピソードを考察している。

実際、すでに旧約聖書の記述から、サタンのその破壊的な行為は、決して絶対的、決定的なものではなく、魂の救済をもたらす神の広大な計画に刻まれたものであるというサタンの私的、被造物的性質を明らかにすることができる。この啓示を確かにし、完成しているのは他でもない新約聖書であり、現に、主イエズスは、悪魔の業を破るためにこの世に来られ(1ヨハネ3,8参照)、公生活の間、数多くの悪魔払いを行なわれた。これらの悪魔払いは、単なる癒しではない。なぜなら、イエズスは悪魔払いにおいて、病気の人に話しかけられたのではなく、憑依された人とは別の意識に向けて「沈黙と退却」という2つのことを命じられたからである。新約聖書の中にはまた、悪のもくろみを実現させるために、他の人たちを自分と同類にしようとするサタンの働きも見て取ることができる。

発言の後半は、聖人たちの経験豊かな体験から話されている。聖人たちの体験には、決意をもってキリストにより根ざした歩みを始めようとする者たちに対して、彼らの霊的いのちにおける成長を妨害するためにサタンが加えるさまざまな虐げや憑着の形が描かれている。これは、教会のいのちにおける不変の資料であり、教父たち(例えば、聖アタナシオによって書かれた『聖アントニオ伝』、また聖大グレゴリウスの『対話』、中世や近世においては、アシジの聖フランシスコ(故1226年)、聖フランシスカ・ロマーナ(故1440年)、近代では、聖ヨハネ・マリア・ビアンネ、聖ヨハネ・ボスコ、聖ジェンマ・ガルガーニ、福者十字架のイエスのマリア、ピエトレルチナの聖ピオ)のうちに見ることができる。

 

「霊的識別」悪魔学と神秘神学

司祭 ジャンカルロ・グラモラッツォ

(神の摂理の小さき業修道会)

ジャンカルロ・グラモラッツォ神父は、33年以上前からローマ教区の祓魔師(エクソシスト)として働いており、また国際祓魔師(国際エクソシスト)協会の現会長を務めている。

数ある問題のなかでも一番重要で難しいものが、この「識別」の問題である。我々は、情報提供の仕方が集団妄想(集団ヒステリー)を引き起こすようなメディア環境の中にいる。情報を伝える側、また受けとる側に知識がない上、さらに信仰をもっていないことから人々は混乱させられ、その重大な結果、人の「責任免除」というかたちで、出来事を悪魔のせいにするのである。

弱い人の心の渋滞を取り除くことも、祓魔師の役割ではある。しかし、悪魔はある現象ではなく、実在するものであり、もし祓魔師が、精神的混乱や弱さが原因の問題に対して、単に占い師や解答者のように求められるなら、彼らの仕事に無用な負担がかかり、本当に必要としている人たちへの時間を取り上げることになってしまう。

また、祓魔師や精神科医は、大きなリスクを抱えている。それは、彼らが重大な権限をもっているということである。人のケースを理解するためには、非常に謙遜に、そしてうわべだけで診断せず、また結論をすぐに引き出そうとせずにその人の体験のなかに入っていくことが必要である。なぜなら人々が祓魔師に期待するのはこの「迅速で明確な診断と決定的な治療法」だからである。悪魔は精神の投影ではなく、何か作り上げられたものでも、根元となるものでもない。もし我々祓魔師が、このことを十分留意しないなら、決して超自然的なものを理解することはできないだろう。

病気は病気として扱うこととし、精神障害者は、ここでの論点から除くことにする。悪魔払いを必要とする時、我々は、その人における神のご計画が何であるのかということを考えなければならない。我々がもし悪魔を重視し、神を全く軽視するようなことがあれば誤りをおかすだろう。主は、ある霊魂に悪魔の働きを許しながら、その霊魂を役立て、救いの業を成し遂げられる。神秘神学的なケースにおいて、そこに神の介入を認めないなら、なに一つ神秘的現象を理解することはできず、見えるのは人の外観だけである。

共同体は、このような試練に生きている人を支えるべきである。悪魔はいかなる主導権も持つことはない。なぜなら、悪魔は神の許可なしに人の中に入り、邪魔することはできないからである。霊の働きは、精神医学や心理学、医学の研究対象ではない。病気は、それらを列挙することができるが、人のうちにさまざまな現れかたをする悪魔はそうはいかず、診断をたいへん難しくしている。なぜなら、それは霊であり、その働きを図式化することができないからである。

以下いくつかのケースが紹介される。

悪魔憑依ではない精神的外傷の30歳女性のケース。どうしても祓魔師として司教から任命されたいと望む未熟で不適正な司祭のケース。神秘的事実もなく聖痕様の傷を持った21歳女性のケース。悪魔憑きへの愛の必要性が取り上げられたヴェローナの教会会議で、悪魔憑き自体存在しないと異議を唱えた修道女のケース。家族に起こったある出来事から考えを改め、診断の仕方を変えることになったパヴィーアのある専門家のケース。司教、修道女らと500人の若者たちを前に悪魔払いの朗読と祈りを行ったケース(彼らは映画によって歪められた概念をもち、誰一人悪魔払いがどんなものであるのかを知らなかった)。神学について正しく討論する5歳男児のケース。超人的力をもつ8歳男児のケース。精神機能障害の疑いがあったが、精神科医の前で地面から浮き上がったことから、祓魔師のもとへ送られた大卒の若者のケース。

 

「精神医学」と「悪魔払い」の慣例を越えて

司祭 フレデリック・レ・ガル

レ・ガル神父の報告は、精神病院において、また精神障害を患った囚人たちのために働く祓魔師(エクソシスト)としての彼の個人的経験を紹介している。これは、2004年から2006年の一定期間に彼が収集した重要なケースデータ(223243ケース)に基づいている。

レ・ガル神父にとって、カトリック教会における祓魔司祭の務めは、苦しむ人々を受け入れ、彼らの苦痛や悩みに耳を傾け、苦しみに連れ添うことにあり、またこの職務には、憑依という悪霊的障害の現象に関する識別能力と、これらの人々が悪の影響から解かれて自由になり、神の癒しと救いによって完全に癒されるという目的に照らしたケースの確定が必要とされる。

「痛い」、「具合が悪い」、「私をいじめる」、「魔法をかけられた」といった、悪の過剰な繰り返しの「連祷」は、全く必要もなく偶発的に、ひどい現実をつくり出してしまう。我々は、それがどこからくるものかはわからないが、世の中や物事の合理的理解を困難にしているということはわかる。「神は全能で、全くの善であるにも関わらず、悪が存在する」ということは、神を信じる者にとってもまた難しいことである。それゆえ、ある時は悪の当事者、ある時は被害者となっている個々の悪の体験を調べながら、認識していくことが大切である。人間は、傷ついたものであり、肉体的、精神的、霊的領域において傷つきやすい。個人的経歴や罪は、霊魂に傷を引き起こし、これらの傷が、(悪のしわざと見なした時は)その人を祓魔師へと向かわせ、そうでない時は医師へ、そして残念ながら、多くのケースにおいて、状況をさらに悪化させる秘教的な儀式へと向かわせている。問題が正しく取り組まれるためには、司祭、精神科医、そして正しい診断を得るために協力するさまざまな専門家たちの連携実践が基本である。それは、教会の歴史のなかで、また教父たちによってすでに明言されてきた「悪と戦い、苦しみに付き添い、痛みを治療する」ことである。

 

憑依に関するケースへの学際的アプローチ

医師 ルカ・モレッティー

モレッティ医師は、世界各地の修道会や教区、そしてまた教皇庁のコンサルタントを務めている。彼は、自らの研究による大変複雑な特殊ケースに言及しながら、神秘体験とその内部にある憑依やトランス、エクスタシーといった神秘体験の定義付けを目ざしている。モレッティ医師は、シスター・アンジェラについて取り上げている。この修道女のケースは、神秘的とも悪魔的憑依ともとれる疑わしい現象が居合わせている中での診断や治療が、いかに困難であるかを示している。

彼は、このように述べる「人は、出発になにも妨げられない開かれた体系(システム)であり、科学は、その貢献を真に提供する時、そこには限界があり、それらの方式が部分的に正しいにすぎないことを心得ている」。神秘的側面は、不明確で謎めいた性質を持つことから、先入観なしにアプローチされ、人文学や自然科学などさまざまな学問がもたらす貴重な貢献を考慮した多分野にわたる視点から研究されるべきである。また、この研究は、先に述べた科学的分野、つまり立証や測定、再生が可能な事柄に専念している科学の手によって理解していく必要がある。

モレッティー氏は、こうした自説に基づき、医師としてまた科学者として、彼自身の観点、つまり認識論に表された「彼の背後にある科学的範例の根拠」をアプリオリ(先験的)に表明しながら、特に神秘体験に伴う物理的現象を、その調べうる性質から分析しようと取り組んでいる。

 

悪魔的憑依・憑着に関する歴史と人類学

教授 マッシモ・アリヴェルティ

アリベルティ教授は、さまざまな文化における悪魔の存在について、一つの歴史的挿話を紹介している。

悪魔的憑依について話される場合、ふつう夢遊型や覚醒型など、外部の(悪霊や霊的な)存在による精神活動の占領を意味している。多くの民族には、属する文化によってざまざまな様式で身を守る悪霊的実在に対する直観が存在する。精神病は、大変しばしばこれによって判断されてきた。

これらの実体から人を守り、解放するための儀式について、さまざまな文化から照合する。世界中に存在するシャーマン儀式の多くは、悪霊を追い出すことへ向けられた真の治療目的をもっている。西洋世界の民間医学には、旧世界(アジア、アフリカ、ヨーロッパ)とキリスト教思想の混交したものがみられ、ロシアや東洋に隣接した宗教の大部分で、善と悪、精神と物質といった二つの対立した原理における信仰がみられる。古代ギリシャやローマの神話においては、冥界の神の存在があり、人間と動物の混ざった姿をもつ存在が信じられ、アッシリアの古代バビロニア人たちは、神々が病気を引き起こすことができると考えていた。また、ヘブライ人たちにとって、悪魔は神によって創造された実体であり、人間を試すものであるとされていた。福音書の中で、イエズスは、多くの悪魔つきを解放し、また彼の名によってそれを行なう弟子たちにその能力を託している。キリスト教は、初め、異教の神々や異端者たちを悪魔と同一視し、悪の起源と性質を明確にするために大昔から内部論争が展開していた。悪魔との戦いは、修道生活の発展によって、その中心的要素となるが、それは、悪魔の世界との接触や相互作用が普通と考えられていた中世までである。異端裁判の時代、魔女たちの実践を解説する数多くの実技マニュアルや魔女裁判、悪魔的憑依の症状などをが世に出された。1500年代から、憑依を精神病とする流れが始まり、1700年代中頃には、魔術に関する裁判は姿を消し、悪魔払い(エクソシズム)のみが残っている。

啓蒙主義、実証主義、マルクス主義の影響により、教会の内部にも、悪魔を「抽象的な力」、または「擬人化した悪ではない」と解釈するいくらかの傾向がある。しかし、教皇たちはこれまでも、そして20世紀においても、悪魔は擬人化した悪であること、またそれゆえ悪魔払いは有効であることを繰り返し主張している。

 

悪魔的憑依・憑着に関する精神病理学

教授 マッシモ・アリヴェルティ

アリベルティ教授は、憑依というテーマに大きな関連性を持たせて精神医学の病理を調べている。

精神科医や司祭は、しばしば、患者が直面している問題が霊的性質のものか、それとも精神医学的な性質のものかという識別をしなければならない。啓蒙主義時代の多くの専門家たちは、すべての悪魔的徴候を精神医学の病理としていた。

悪魔に憑依されていると考えられる患者には、いくつかの精神病理学的状態があるが、それは、解離性同一性障害(旧分類では、多重人格障害)、思考障害(急性精神病エピソードや慢性妄想精神病)、抑うつ性精神病、側頭葉てんかんである。また、とりわけ重要性を持つものは、「せん妄」であり、そのすべての様相に、しばしば神秘的・宗教的なタイプの要素が居合わせているのである。

精神科医たちの個人的症例研究は、悪魔的憑依とも判断できる多くの状況を凝視している

 

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