司祭 クラウディオ・M・ベラルディ
序文:「私たちは見たい」
ここ数世紀、視覚とその働きに関して取り組むさまざまな学説研究は、「見る」ということをどう解釈すべきか、またその身体的機能が、霊魂・肉体・精神をもつ「全体」としての人間に引き起こすもの(良いものも悪いものも含め)は何かということを明白に示している。
このテーマは、科学から哲学、神経科学から神学、美学から霊性まで学際的アプローチによって展開されている。光学のメカニズムから美的「感覚」まで、関連するすべての過程を全面的に把握することは、私たちが「見ている」創造された宇宙や隣人、また「見たいと望んでいる」神という視覚の対象をより意識したアプローチであると言える。
教授 S・M・ペッレーラ B.M.V
「祝福されたもの」と「呪われたもの」 聖母マリアの出現と悪魔の出現
これは「キリストの御母の存在とその取りなし」というテーマを神の自己啓示の枠に位置づけて深く掘り下げた研究であり、「出現」を、その神秘的側面において、また一定の時代に信仰の本質をより完全に生きる助けとなる体験であるというその特徴において把握することができる。
「契約」というより広い文脈の中に含まれる「祝福」と「呪い」の概念は、主の御母とその人格、また世界と教会における彼女の使命の神秘を照らすものであり、「神の救いの自己啓示に対する信仰者の返答」として、キリスト信者の生き方を解釈する鍵となるものである。なぜなら信仰する者の返答には、「呪いから祝福への変転」、キリストの十字架の神秘のうちにある「呪われたものたちとの連帯」を伴うからである。
「出現」に関する識別は、行政、科学、教会の3重の条件を通してなされ、啓示との関係性やそれらのカリスマ的事象の性質、言いかえるならば、すべての信者の信仰・希望・愛を支える神の贈り物としての性質を保証するのに役立つものである。
被昇天の教義に神学的根拠をおく「聖母の出現」に対抗するのが、「悪魔の出現」である。悪魔の出現は、信者を徳の道から逸らすもくろみをもった悪魔の目に見える現れである。しかし、神は徳を強固なものにするため、また、悪のたくらみに根拠がないことを暴くためにそれをお許しになっている。
おとめマリアは、悪との戦いにおいても、教会が神の恩恵によって呪いへと向かう罪の道を離れ、祝福の道を選択するよう、その母性をもって働いている。
教授 R・ラバトーリ
偶像崇拝:偽りの神のヴィジョン
この「知恵の書」13・14章についての分析は、聖書解釈の観点のみではなく、そこに表現された神学的・人間学的内容を熟考している。そして、人間の無駄な考えや天体の星・動物を神と混同する愚かさ、つまり世俗的な物の見方の感覚領域に神の概念をはめ込もうとするものが偶像を生み広めていくこととなった、その動機を発見するに至っている。
創られた物の秩序ある組織がゆがめられることによって、この地上で悪や悪意、無秩序なモラルや社会が蔓延していくのである。そのため、現代も絶えずまちがった観点のもとに繰り返し持ち出される偶像崇拝を完全に取り去らない限り、秩序ある世界やより健康な人類への計画は、今後もユートピアであり続けるだろう。「創造とあがないの知恵」の真のヴィジョンをはねつけるなら、決して良いものも美しいものも生み出されることのない蒙昧主義に捕われ続けることになる。
司祭 D・レーピチェ
「聖土曜日のイコン」 東洋におけるキリストのイコン再発見と聖骸布の人の御顔
典礼や祈りにおける「まなざし」の重要性は、キリスト教イコノグラフィーとその普及の土台になっている。聖なる像(初めに十字架、次いでイコン)は、一つの窓であり、また開始と通過、見えないものへと開かれた扉であり、人間の霊がその像に示された御方の霊との対話へと入ることができる戸口である。
一世紀前のイコン再発見は、教会に一致の必要性を感じさせ、教会芸術を変質させずに、現代と当代で「教会の伝承」をいかに効果的に対話させることができるかを熟考させるきっかけとなった。
聖骸布、聖土曜日の「アケイロポイエートスのイコン」は、神が隠れ、沈黙し、「空にされた」神秘を示すと同時に、その「断定」と暗示によって我々に問いかけ、意見を求めている。聖該布は、まさに私たちのようにテクノロジー化された社会において、光が射し込むままに、信者とまた信者でない人々へも「神の存在」への手がかりを示し、キリストとの一致のいのちへの通過である「過ぎ越しの祝い」へと招くものである。
F・スカルセッラ
余興と異教
すべての教会の教父たちによれば、異教の神々は悪魔であり、偶像の姿は、その業を普及させるための手段として彼らに捧げられたものである。今日、異教はあらゆる根拠を欠くものであると見なされているが、先に異教徒、後にキリスト教徒がもっていた現象の概念は、交霊的性質をはっきりと示している。
交霊術は、人や物に作用する能力をもった人格のある不可視の霊的存在との関係であり、それらは専用の儀式によって特定の目的のために呼び起こされていた。また、受肉された真理の前には、それらの本質、仕業、目的、そして終わりのない惨めさが暴かれざるをえなかった。
神々ではなく、悪魔である。悪魔は、唯一まことの神に対して向けられるべき尊敬や崇拝を人間から奪い、彼らがはびこる巣窟へと向けさせ、創造主から権力を奪おうとしており、その卑しい欲望は、歴史の中に変わらず存在し続けている。
祭り、儀式、余興、いけにえは、すべてこの偶像崇拝の一部であり、それらの方法で、人間が決して救い主に目を向けないように、時間だけでなく崇拝、知性、そして人生そのものを浪費するよう導いてきた。
余興と異教の関係は、今日のテーマへと強調されるものであり、余興と偽の唯一神・アンチクリストの仮面の裏に隠れている悪魔は、常に同じ目的をもって、地獄のシンボルや悪魔儀式、冒涜的な内容のうちに、今日のメディアをとおして呼び起こされている。まことの唯一の神、真の崇拝をもって礼拝されるべき私たちの唯一の救い主から、人間を遠ざけるという目的のために。
精神科医師 L・マルレッタ
加速する社会における想像力の病理
これは、コンピューター、携帯電話、インターネット、マス・メディア、ソーシャルメディアなど、特にコミュニケーション・テクノロジーに駆り立てられた変化の加速について述べている。
社会水準への影響は、不確かさの程度を増し、「見ること」に過剰な信頼性を与えている宣伝の誘惑により、消費文化は物だけでなく理念や価値といった非物質的なものにまで及んでいる。重要性を示す新たな指示器は、視聴者数やアクセス数、「友だち」の数であり、もはや偉人であることよりも、ただ著名・有名であることなのである。
霊的な影響は、自分自身の心の奥底や他の人、神のみ旨に耳を傾けるために必要な沈黙が困難であること、外敵探しと責任逃れによる悪や罪の認識低下、また、虚栄—cenodossia、貪欲—filargiria、色欲やポルノグラフィーといった悪癖の強化などがあげられる。
初代教父たちの考察には、すでに予知として知らされていた「現代」について記されている。
教授 R・フォルナーラ O.C.D
茂みの前のモーゼ 旧約聖書における神のヴィション
これは、燃える茂みにおける神のモーゼへの出現が語られる「脱出の書(3章1−6節)」についての聖書解釈の分析であり、ヴィジョンの現象学を神学的、人間学的斜面に浮かび上がらせようとするものである。
一方には、「神に向かう人間の歩み」:神を見たい、知りたいという望みがあり、感覚が知覚しうる実在の外見を越えて、観想的まなざしをとおして「理由」を自問するまでに人を押し動かす。
もう一方には、「神のイニシアチブ」:対話へと招き、聞き手に返答を求める「神ご自身の現れ」がある。人は、このように己の惨めさを見いだすと同時に、神の超越性と限りない愛に支えられ、包まれていることに気づく。神の愛は、純粋な心で神に仕えるために人を偶像から解放へと招き、その存在によって聖化される。
教授 F・ピエーリ
聖ヨハネにおける光と闇
聖書における「光」についての短い前置きの後、ピエーリ教授は、聖ヨハネが第四福音書で適用した「光の象徴」から様々な意義を示している。
世の光は、受肉された神のみことば、イエス・キリストであり、その教えと生き方によって神の愛の神秘を明らかにし、人々を照らした。「いのちの光」に対抗するのが、悪の支配のもとに広がる世の闇である。光のうちにとどまりたい者は、彼とともに永遠のいのちに与るために、キリストをメシアとして信じ、従うことを選ぶ責任をもっている。キリスト信者は、キリストの闇に対する完全で最終的な勝利を知っており、それを観想する。たとえこの世で無関心や皮肉、うぬぼれと戦わなければならなくとも、キリスト信者は、「己の信仰は、天国への歩みであり、恩恵に対して返すべき答えであることを知っている。」そしてまたそれを証することが、世のために光となるであろうことを知っているのである。
司祭 E・M・パルマ
「光が天から下るのが見えました」(使徒行録26,13) 「ヴィジョン」から生まれるパウロのキリスト体験
このダマスコ途上のサウロ(パウロ)の「復活のキリスト体験」は、使徒行録のなかに記された物語の批判的分析を通して、その「現実的」特徴によって記述・解釈されている(使徒行録9,1-19a; 22,3-21; 26,4-23)。聖書的根拠に従って、サウロのヴィジョンの信憑性の手がかりとなるものに、神の顕現を「ある使命を授けること」に結びつけたもの、受取り手本人と共に居合わせたものたちの体験の違い、ヴィジョンによりサウロが被った「突然の失明」という肉体的影響があげられる。また、この体験の真実性における決定的な論証が、サウロの体験した内的な悲劇と神の声に対する彼の抵抗のすべてをはっきりと示した表現から引き出されている。
彼が成し遂げた根本的な生き方の転換は、彼の個人的な反省や精神的動揺によるものではなく、外部からの理由によるもの、つまり自分の意志とは反して、復活の主を「見た」こと、そして主への奉仕に身をおくよう主によって押し動かされたことによると考えられる。
司祭 R・ペトローニ
「私たちは主を見ました」
ヴィジョンとは、教会の歴史において、変わることなく絶え間なく続く古来の現象であり、使徒たちから現代の神秘家たちまで無数のものがこの神の恩恵を授かった。このことは、同時に、現象についていくつかのガイドラインを明らかにしてくれるものであり、教会は、賢明さをもってその教えのなかで識別の方法、形式、目的、基準を示している。これらは、この「見る」ということをより把握することを可能にし、ご出現やヴィジョンを幻覚や偽の神秘体験と識別しながら、人は今日も「私たちは見ました」と感嘆の声をあげるまでに「復活の主」とともにいる必要があること、そして私たちの生涯を信仰の証人としての使命に専心させる神の啓示にますます一致しなければならないことを再認識させてくれるのである。
司祭 A・フェッレーロ
見えないものを見ること 肉体・精神・霊魂における神のヴィジョン
この視覚のテーマは、人とその「世界(心理的内部世界・外部世界〈社会・習慣ethos・文化〉・霊的世界)」について取り組んでいる。幻覚と出現との違いは、前者が、通常の知覚過程の機能障害であるのに対して、後者は間違いなく霊的世界と関係がある知覚であり、超自然的に起こるものであるという点である。
この世において人が受けることができるより完全な神のヴィジョンは、神の神秘的な恩恵の産物であり、「観想」と呼ばれている。それは、身体的視覚やはっきりと認知することではなく、神の知識と愛に「浸ること」であり、自然の機能という点では、霊魂を「盲目」にし衰弱させるが、他方では、霊魂にとっての喜びと平和、活力の泉である。
教授 C・デメッツィ
闇から光へ 暗闇において見ること
ある神秘家たちは、まさに最大の霊的身体的暗闇のうちにあっても、以前は存在すら知らなかったものを見ることができることを証している。私たちにこれを完全に体験させることができるのは、キリストである。なぜなら、キリストご自身が誰よりも先にその死と復活をとおして、この暗闇を体験されたからである。
このレポートは、まず目で見るというすぐれた身体的能力とその霊魂との関係性について説明した後、神秘家であり作家、「暗夜」における霊的感覚の師である十字架の聖ヨハネの経験について取り組んでいる。また、聖エディット・シュタインとこのスペインの神秘家に関する彼女の研究について、そして最後に、間もなく聖人となるカルカッタの福者マザー・テレサについて続けている。マザーのこの霊的闇と「神の不在」の体験は、「暗闇の体験」の中で知ることのできる超自然的な感覚を理解させてくれるだろう。
P・ダモッソ
映像とコミュニケーション
パオロ・ダモッソは、その20年を越える演出家としての経験から、今日のメディアを背景に、福音を伝える教会にとっての必要性と可能性を考察している。
彼はメディアを規則に制限された容器と明確な独自の文法をもった一つの水槽にたとえている。
教会公文書でも強調されているように、マス・メディアは、それ自身においては良いものでも悪いものでもない。良し悪しを評価するのは、それによって伝えられる内容である。しかしながら、伝える方法も重要であり、「言語表現の知性」や受取手の能力に合わせた調整、そして確かな専門性が不可欠といえる。
ひとつの誘惑となりうることは、単に自分の行動を多くの人に覚えていてほしい、見てほしいという自己満足のためだけにドキュメンタリーをつくることである。
良いものにも悪いものにも、パニックをあおる、憎しみを起こさせる、愛情を生む、希望を与えるなどの目的をもった目を引く映像効果となりうるものがある。しかし、マス・メディアは、賢明さをもって利用するなら、今ありこれからも消えることなく、また決して消されることのない、より本物で真実な価値を簡潔に考えさせるためにも役立つものである。
MAC会長 F・シェルツォ
異なる見方 視力の不可能性と相互関係の可能性 人の自立auto exusios
障害をもった人は、つながりと可能性、依存と独立へのあこがれ、差別と同一視(無関心)のリスクの間につるされたような状態にある。しかし、これらはすべての人にいえることで、みな各々の限界と能力を認識する必要がある。視覚障害を責任もって受け入れるということは、「障害は、ひとつの身体的条件であり、人としての尊厳を損なうものではない」という自覚の成熟を意味する。人は、神の似姿に創造され、障害をもっている「にもかかわらず」、神の計画に答えるために呼ばれているのである。
障害をもつ人を「異なる能力をもつ者」と定義する際、そこにはしばしば偽りが潜んでいることがある。しかし偽りなく用いるならば、「異なる見方」という表現は挑発や詐欺ではなく、相互関係や個々の違いと自主性のうちに、共に歩んでいこうとする願いを表すものである。
このような歩みによって、社会は部外者や自分と異なるものに対する懸念に閉ざされることなく、個々の自主性によってその特異性を大切にする人たちの相互関係を築いていくことができるのである。この共に歩む社会は、「違いのシンフォニー」の場といえるだろう。