サルス・ホミニス学際研究における

人類学の座標

1.人類学の原理と土台

1.1原理と土台を明白にすること

原理と土台を明白にする上で、まず考えられるリスクは、「レッテル」を貼られてしまう(決めつけられてしまう)ことです。そして更に悪くすれば、異なった基準や原理をもつ人との「衝突」をもたらすこともあるということです。自分たちの原理と両立しないという理由で、他の内容のものを排除することは簡単です。しかし学際的取り組みとは、この簡単な近道をとるものではなく、相手を尊敬し、さまざまな考え方を検討することに基づく傾聴能力を備えたものです。たとえ違う原理から導かれた考え方であっても、合理性の通った唯一の道(データを分析し、解釈するための理性の働き)によって比較しなければならないのです。(・・・)私たちは、異なった科学的モデルに取り組む時、しばしば対話不可能な場面に出会います。なぜなら、そこには、ただ相手の原理に対して根拠のない実証をするための独自の解釈による原理と土台があるからです。

他方で、原理や土台を明白にしない上でのリスクは、すべてが可能で、すべては表現できるものであるとする考え方、つまり何もかも可能な解釈に変えてしまう相対主義の絶対的原理に駆られて、平和的誠意と真の対話を混同し、すべてを曖昧なままにしてしまうことです。

1.1.1.序文

人間への取り組みには、宗教的、哲学的、科学的、どのようなタイプのものも、あらゆる人類学的概念の背後となる正当な原理があり、それは、常にある世界観(weltangshaung)となっています。そこには、多かれ少なかれ、私たちが生きる現実を理解する方法が示されており、それが人間理解へとつながります[1]。「この世は神からつくられたものか、それとも偶然からなったものか」という最初の問いは、私たち自身を真理へも、偽りへも導きます。そのため、この問いは、私たちの考えや行いのすべてを左右し、私たちのいのちの発展に大きな影響を与えるものです。言い換えれば、私たちは、もしこの存在の問いに向き合い、「私は誰なのか」「どこから来たのか」ということを考えないなら、「私たちは何をしなければならないのか」という問いに真に答えることはできないのです。

(・・・)キリスト教的モデルを見いだしましょう。それは、厳密に言えば、被造物にとっての選択権です。キリスト教徒は、神が創造主であることを信じ、私たちは創造されたもの、神から受けたもの、愛に依存したものであるという存在を受け入れています。この意味から、被造物の依存は、人にとって、全く卑しいものではありません。なぜなら、それは、自己の「縮小」ではなく、また他人との間に競争や対立といったイメージを含まないからです。

今日の文化的、哲学的、科学的展望は、被造物の概念に対立を示す傾向にあることに気づきます[2]。そのため、私たちの学際研究は、さまざまな分野における調査研究者たちとの対話を閉ざすことなく、かえって、人類学上の違いを取り入れ、人間の起源や性質について真剣に調べ、真理を探求する人たちに向けて橋渡しをすることを意図しています。

1.1.2人は神にかたどり、その似姿として創造された

「われらに似せて、われらにかたどって人間をつくろう」(創世記1,26)。キリスト教神学によって明確にされている人間の「神にかたどって」という根本的な概念は、本質的に創世の書の聖書表現へとさかのぼります。人間は神からその存在を与えられた被造物であり、すべてのものは愛するために創造されました。そして、見えるすべての被造物の間で、ただ人間だけが「創造主を知り、愛することができる」[3]よう定められました。人間は、神にかたどられたものとして、特別な能力と機能という特性を授けられ、見える現実(物質的世界)、見えない現実(霊的世界)、このどちらとも個人的関係のうちに入ることができます。実際、人間は、二つの共存する原理が単一のものを形成した、霊魂と肉体から成る一つの存在です。物質的肉体は、霊魂によって生きた人間の体となっており、一方、霊的魂は、肉体を支え、いのちを与えることから、人間の魂となっています[4]。人間の人格は、認識し、また自らを知り、善悪を見分け、他人のために自らを自由に提供すること、そしてなにより、終わりのない真理と幸福を切望することができるのです(至福)。この活力(dinamism)の基盤には、見える世界との関係、他人との関係、また霊的世界や神的世界との個人の関係を独自に特徴づける知性と意志という内的能力があります。(・・・)御父との愛の一致は、造られた本来の神の似姿を再建するために[5]、このように基盤を据えながら、対神徳(信仰、希望、愛)の活力(dinamism)をとおして、聖霊が良心と神の愛への能力を「高める」ために人格に結びつく時、人間のうちに実現します。

また、個人の自由(人間の崇高な尊厳の表れである)も、人間の奥深くに根付いています。それは、個人の絶対的な自立ではなく、創造主から賜物としていただいた自己の存在に対する責任であり、一貫した行動を要するものです。逆説的に言えば、真の自由とは「従順」のうちに、「自己の」(つまり、完全に自己指示的にふるまうために、被造物の条件に適さない)意志を放棄することのうちにあるのです。

1.1.3人間はその全体に「傷を負っている」

歴史の初めから、「人間は、・・・悪霊に誘われて、自由を乱用し、神に対立し、自分の完成を神の他に求めた。」[6] 自由のゆがめられた使用は、人間の真の心の喪失です。それは、人間を偽りの偶像の奴隷へと誘うばかりでなく、元の姿を崩すものです。(・・・)身体の健康状態において感じることのできる肉体的弱さは、この傷のしるしです。健康は、病気によって容易に失われてしまうものであり、現世の存在の終わり(死)に関連しています。この死という現実はだれもが避けることのできないものです。人格を形成し、定めるきわめて内奥の結合は、絶えず、肉体的な死(つまり肉体と霊魂の分離)に脅かされています。(・・・)どんな方法によってもそれを邪魔することはできません。また感情や意志、知性の内的調和も悪化しました。人間はしばしば自分自身を閉ざし、もっぱら自己の要求を投げつけ、こうして他人との関係を損ないます。(・・・)罪の傷はまた、(・・・)霊的なレベルにおいて、人間に創造主との似姿をも失わせました。(・・・)この霊的次元は、ただ聖霊の賜物を介してのみ回復させることができます。聖霊は、人間をご自分と神の真理の知識へと導き、人間に、三位一体のいのちの扉を開けてくださるのです。

こうした歴史的条件によって、人間はより多く、サタンの誘惑の支配下に置かれています。サタンは、究極の目的(つまり善)から人間を引き離そうとしています。偽りの父であり、この世の君主である悪霊は、現存する自然、特に人間の肉体において、あらゆる方法で働きかけながら、神の恵みである神の「生命の木」(創世記2,9参照)をもつ人間のいのちの絆を壊すという主要なもくろみをもっているのです。 

1.1.4.真理によって解放された人間(真理の理性的保護は人間の保護である)

人間は、あらゆる認知の分野において、立証された(科学的)真理にたどり着くために、理性という「道具」を用いて調べます。新しい科学的発見は、新しい科学的仮説を生み出します。哲学の分野においても、愛智(智を愛すること)は、物事や人間における真理、そして、人間の最終の問いにおける真理を知るために、人間を理性的に調べるよう導きます。つまり、答えを追求すべき問いを明確にしながら、調べていくのです。また、神学の領域においては、神の神秘を考えるために、人間のいのちについて調べ、人間とは何かということを知るために、神の啓示について調べます。理性の働きを通してそれを知ることができるよう、真理は私たちに与えられ、また私たちを照らしています。この論理的な方法は、実証科学、哲学、神学に応用されています。

人間について、また、この世について論じるために出発すべき源は、神ご自身の啓示です。それは、聖書に含まれ、カトリック教会によって正しく解釈されています。教会には、教父たちが示してきた聖伝によってその教えと解釈がしっかりと根をおろしています。これは、過去を生きるという意味ではなく、むしろ、啓示という不変の真理を汲みとりながら、現在を生きることなのです。

では、どのように真理を探し求めたらよいでしょうか。また、どのように議論し、対話したらよいでしょうか。理性は不可欠なものですが、また意志による信仰の宣言を必要とします。この信仰の宣言は、強制されたものではなく、完全な自由におけるものです。そのため信仰は、負わされるものではなく、自ら申し出るものなのです。理性で理解しようと試みても、その結果は保証されません。理性だけでは、神秘を理解することはできず、常に信仰の宣言が必要なのです。それゆえ、理性は知り、議論するための手段ではあっても、それだけでは、それを創られたお方を知ることはできないのです。

唯一の模範である聖書のデータは、ロゴス(理性[みことばであるキリスト])によって、ロゴスのために、創られた事実です[7]。人間は、理性によって神の存在を知り、被造物のうちに創造主が刻まれた自然法である徳によって善と悪を見分けることができます。この自然法を土台に、他の神学的、哲学的、科学的モデルとの対話を築くことができるのです。真理をともに探求するなら、たとえ信仰をもっていなくても、違う考えをもった人との対話を可能にします。この真理の探求は、研究者双方ともに不可欠なものです。啓示自身、真理は理性と両立するということを明言しています。理性的である(理性を有する)ことは、私たちが対話し、知り、未知で不鮮明な真理というもののうちにある新しい事実を発見するための普遍の方法です。これは、認知に関するあらゆる野分において基本となるすぐれた能力です。

1.1.5人間を構成する統一体と相違

(霊魂と肉体からなる統一体は、心理的次元と区別された霊的次元を含んでいる) 

私たちは、自分が人間の性質を研究する第一人者ではないことを認め、謙遜になることによって、教会の教父や聖人たち、神秘家たちの著書に書かれた「人間の知恵」に目を向けることができます。(人間とは何かという)人類学の問いは、その広大な全景のなかで、まず信仰生活の体験をとおして明らかにされ、その後、異教の(キリスト教以前の)世界やギリシャ人たちの哲学による文化化の流れのなかでテーマとされてきました。聖アウグスティヌスや聖トマス、聖エヴァグリオス・ポンティコスから十字架の聖ヨハネに至るまで、教会の教父や博士たちの言葉は、異なった言語や文章でありながら、過度に簡素化されることなく、今日においても教会の教えやキリスト教的人類学と呼ばれるものと一致する点をもっています。霊魂の存在と、その肉体との結合ついては、霊魂が復活を待つ肉体よりも優位であるという見方から始まり、古代ギリシャ哲学の「シノロ(質量と形相の結合)」の概念や現代の「ホリスティック」な見方に至るまで、常に繰り返し主張されてきました。この肉体と統合した霊魂の存在は、キリスト教人類学の基点です。しかし、これについては、心理的なものより生物学的なものを、霊的なものより感情や欲動というものを肯定する近代思想の中でしか議論されていません。

また、根本的な問題として、「プシケpsiché」や「霊魂」という用語の語意のあいまいさがあげられます。霊魂は霊的な性質のもので、その3つの能力である知性、意志、記憶は、肉体に統合されています。もし、「プシケ」を哲学的に理解されているように霊魂として解釈せず、むしろ心理内または体系的な関係における能力と考えるなら、当然、心理的性質と人の霊的性質は区別して考えなければなりません。心理的次元は、人間の霊的次元と同一ではありません。神を信じない西洋哲学の思想は、多くの場合、人間の動物的性質を強く主張しています。これは、人間が単に動物より心理的に複雑であること、また、生物学的構造がより発達しているということだけで動物と区別するものです。しかしまた、このような主張をもっていながらも、大半の人々は、生物学的、心理学的なものを越える次元に、人間であることの意味を探しています。(・・・)神の賜物である聖霊は、御父の愛によってキリストのうちに啓示されました。この聖霊の光の輝きは、神に創造された人間の霊的性質を私たちに理解させてくれます。

一言でいうならば、あらゆるダイナミックス(人間のあらゆる局面)をよりよく理解し、簡約主義や見せかけの科学的アプローチに陥らないためには、心理的次元と霊的次元は区別されるべきなのです。

1.1.6悪の存在と可能性における人間

人間の(個人および人類全体の)歴史は、広く蒔かれた善の芽と同時に、不正や悪事、破壊、暴力などにみられる不可解な悪の存在も持っています。被造物である人間は、自由を与えられているために、(隣人への真の愛や家族への献身のような)称賛に値する働きができると同時に、また、(無実の無防備ないのちを抹殺するような)非難され、とがめられるような行動をとることもできます。

「悪の力」をひとまとめに表すものとして、しばしば「悪魔(サタン)」という言葉を耳にします。これは、残念ながら私たちの生活のなかにマイナス的に刻まれており、さまざまな方法で悪に傾いた「人」を包括して指す一つのシンボルのように使われています。

しかし、私たちは、「悪魔」という言葉のもつ象徴的役割だけでなく、更にそれを越えて、悪を「個体」としてとらえた(・・・)その存在を理解する共通の方法を認識することが必要です。特に、聖書は、サタンの被造物的特性を明らかにし、神の計画に決定的に根底から反対する霊的存在として示しています。

サタンは、被造物としては、従うべき自然法に従属していますが、霊(物理的な体はないが、知性と意志を与えられた個体の存在)としては、人間的な領域を越え、間近で作用することができます(超自然的作用)。サタンが人間の世界に手出しできるのは、被造物の法に従う場合のみですが、それは、しばしば人間の働きや理解力を越えて、並外れた驚異的な効果をもたらします。更に、サタンは物質に作用しながら、人間の体にも影響を及ぼすことができます。また、霊魂の能力を獲得すること、つまり、人の心理に働きかけ、空想のイメージを与えたり、霊魂の能力が動揺し、曇り、弱るように妄想観念を起こさせることによって、善の実現から遠ざけようとしています。

しかしながら、サタンは、しぶとく巧妙な誘いを通して悪へといざなうことはできても、人間に悪を強いることはできません。この誘いは、一般に誘惑(マテオ4,1-11、マルコ1,12-13、ルカ4,1-13、1ペトロ5,8)と言われています。サタンは、人間の体に取り憑くことはできても、その人自身から託されない限り、直接その意志を占領することはできないのです。人間の意志を罪に従わせ、よりはっきりと神を拒絶させるために、サタンは、人間の肉体や欲望を利用します。しかし、これには、サタンが勧める邪悪な意志に、その人自身が決心する同意が必要です。まさに、確固とした決定的な悪意(最終的な悪の決断による)のために、サタンは自由(善を自由に選択できる能力)を与えられた被造物とはいえません。悪に縛られ、善を「望まない」自分自身に縛られているからです。にもかかわらず、被造物に対するサタンの力は大変大きく、「この世のかしら」(ヨハネ12,31、14,31、16,11)と呼ばれるほどです。しかし、それが絶対的な無限の力であると考えてはいけません。サタンは、その創造された性質上、すべてにおいて神の支配下に置かれています(ヨブ1,9-12、2,4-7、マテオ8,27-34)。しかしながら、人間の罪は、サタンの支配への扉を開き、今も開き続けています。神の御子は、人間をあがなうためにこの世に来られました。それは人間を闇の権力から解放し(コロサイ1,13参照)、悪魔の業を破るため(1ヨハネ3,8)です。

神とサタンの対抗は、マニ教的に、善と悪という普遍の原理の戦いであると解釈すべきではなく、創造主に対抗したある被造物の「破綻」と見るべきです。サタンに対する神の勝利は、まだ完全に終結していないにしても、すでに確定しています。十字架の勝利、あわれみ深い愛の大勝利なのです。(・・・)イエズスによって完成した悪魔払いは、悪魔に対して神の優位性と神のみ旨への服従を示しています。

サタンの働きは、神の救いの計画に対し、絶対的なものではなく、反対に、主のあわれみと力を際立たせるものです。主は、罪を犯し闇の国の支配下にある人間を助け、救うために、人間の歴史に介入されました(エフェゾ2,2、使徒10,38、同26,18参照)。

1.1.7恩恵である一致への働き(聖性の歩みと霊的戦い)

神の恩恵である聖化と一致への働きは、罪や悪魔の破壊的、崩壊的な作用と対抗するものです。神の恩恵は、すべての善意の人々のうちに隠れて働き、特に、キリストが使徒たちに伝え、秘跡をとおして教会のうちに伝わっている聖霊の賜物を、信仰のうちにはっきりと受け入れる人々のうちに効果的に作用しています。

キリスト信者は、洗礼によって「霊の初穂」(ローマ8,23)を受け、あらゆる徳のうちに人間が内面的に新しくされ、最終的に「体があがなわれること」(ローマ 同)を期待しています。これによって、人間は、御子が新たないのちに復活し、人間の体をもって天に昇られたその姿に完全に形を変えることができるのです[8]。永遠のいのちへの招きは、人間の知性や意志の力を越えて、全面的に神の無償のイニシアティブによるものです。なぜなら神のみがご自分を啓示し、お与えになることができるからです[9]。神はまた、私たちが自らの回心(つまり人間の性質のなかに刻まれた原罪と個人の罪による傷跡の完全な治癒)をもって、自由に応えることを求めておられます。

人間は、洗礼によって、神のいのち(キリストのいのちそのもの)に与りながら、新たないのちに「生まれ変わり」ます。しかし、それは、まだ完全な完成された形ではなく、これから成長し、成熟すべき種としてです。

霊的進歩は、ますますキリストとの内的一致へと向かわせます。このキリストとの一致は、すべての人が招かれているものです。「すべてのキリスト信者がキリスト教的生活の完成と完全な愛に至るよう召されている」[10]、(・・・)。

この恩恵の賜物は、(・・・)絶え間なく罪と戦い、徳を積むことによってのみ維持され、完成することができます。(・・・)この内奥の戦いには、神との一致の歩みのうちに人が進歩して行くことを邪魔しようとする悪魔の力が加わりますが、それは被造物的性質と神が定められた範囲に限られています。神に対して「イエス」と応え、罪と悪魔に対して「ノー」と応えるこの内的戦いを、もし、心理面においてのみ体験するなら、その人はだめになるでしょう。 大切なのは、人がこの戦いを自分の意志と知性の力だけで生きることなく、自分のうちに聖霊の賜物が働かれるように、霊的な次元に開かれることです。精神的、心理的な苦行にのみ頼る戦いは、神経症やうつ状態などの重い病状をもたらします(・・・)。愛(神との一致)において成長するには、神のみことばに熱心に耳を傾け、信仰のうちにそれを自分のものにし、神の恵みと霊的励ましを受けるために秘跡に与ること、そして、神と対話するように絶えず祈り、キリストの愛に反するものに対する自己犠牲と、自分の務めに従って兄弟たちの奉仕に励むことが必要です。聖霊は、信者たちが心をこめて、魂をこめて、精神と全力で神を愛するように、また、キリストが愛したように隣人を愛するように内部から促し、個人の聖化と教会の共通善を完成するため「カリスマ」と呼ばれる特別な賜物と恩恵をお授けになります。この神秘的賜物は、人間の聖性や特権の証しではなく、また苦行の務めをとおして手に入れる「忠実さへのほうび」でもありません。ただ神の自由な意向によるものです。神は、その賜物をとおして、それを受ける者が特別な召命に、より熱心さと責任をもって応えるよう呼ばれているのです。

1.1.8診断と霊的識別

道徳的な善悪の識別とは、霊的な識別までもを示すものではありません。「霊的識別」の第一の意味は、聖イグナチオの体験や著書が教える「善いものと私にとって善いものとを見分けること」です。決定は、個人によって自由にくだされるべきものです。しかし、自分にとって善いものを探す人が、神のみ旨を考えることなく機械的に決定するなら、その人の識別能力は道徳的な善悪さえわからなくなるほど退化し、霊的識別を問題にすることすらできなくなります。多くの善い可能性のなかで自分にとって善いものを選択するために、神のみ旨を知ること、これが「霊的識別」という言葉のもつ一番の内容です。

次に、第二の意味としてあげられるのは、カルメル会の伝承と体験が示すもので、道徳的な善悪の区別を越えて、「人の霊的いのちにおける神の働きと悪魔の働きを見分けること」です。この二つ目の意味は、人が自分自身を超越した霊的次元と結びつくときに関係し、この霊的実在(神と悪魔の働き)のさらなる分析へと開きます。霊的に健全な歩みのうちに進んで行くためには、神の働きと悪魔の策略を見分けることが必要です(・・・)。

社会的、生態学的モラルの要求により道徳的な識別が拡大するなかで、神秘神学や悪魔学における霊的識別は、キリスト教の実践においても、次第に縮小してきています。心理的なものを、より霊的なものに関係づけて混同することによって、人間の「霊的」働きは、善を行い、他の人のために何かをする上で、より確かさを出すために神の名を使うようになってしまっています。カトリックやさらに広くキリスト教全体にも存在しているこの痛ましいギャップに、心理学の広がりと、先験的に心理学的でないものの存在を否定する考え方が加わり、その結果、人間へのアプローチ(取り組み)は精神医学的、心理学的療法でしかなくなっています(・・・)。

カトリックの伝統によれば、真の信仰の欠如と、その表情に健全さとバランスを欠くことは、人間を秘教主義や盲信へと脱線させ、グループや教団によって幸福や自己実現、自己崇拝までもを「保証」して市場の商品のように「売られている」宗教を求めることに向かわせます。このような背景において、私たちは、人間の自由を尊重しながらも、その人の個人的、霊的成長のための治療法を探り、この人間の精神崩壊の実態に取り組まなければいけません。文化的背景には、(・・・)尋常でない宗教性や他の古代宗教的伝統が混在するグローバリゼーションや文化変容の流れと手を結ぶ反キリスト教の存在があります。診断や識別は、より難解になっており、心理的、霊的にとどまらず人間のあらゆる側面からくる不健康や諸症状に目を向けた解釈に開かれるよう基点が求められています。

2.人間の性質に関する研究と解釈のための方法論

2.1.方法の探求

前節に記述された原理や価値は、キリスト教的人類学の観点から、人間の認知に関する前提をつくっています。それらを深めるため、また何より、キリスト教的な題材とそうでないものを比較する手助けをするためには、人間の性質や被造物性に関する研究や解釈に役立てるだけでなく、学際的性質によって多分野にわたる共同の取り組みを採用していこうとする方法論を発展させていく必要があります。

2.2.学際性の必要性

2.3.既知の方法への言及

2.4.現象学研究

2.5.伝統科学の境界を越えて

2.6.科学と信仰の関係

3.語意的問題

口述の言葉(話されたもの書かれたものともに)の本質的役割は、特有の意味をもつ言葉(またはジェスチャー)を用いて、様々な主題の間で、概念を伝えるものです。正しい対話(または情報の交換)には、コミュニケーションにおいて使われる言葉が、参加するすべての人たちにおいて同じ意味である必要があります。学際的(Interdisciplinaryまたは Multidisciplinary)背景において、このような要求はますます強くなっています。

3.1用語解説(・・・)

 

[1] 「はじめに神は天と地を作られた」(J.ラッツィンガー pp.130-131トリノ リンダウ 2006年)参照

[2]  Lectio magistralis(J.ラッツィンガー著 PP.113-128引用 ザルツブルク大学カトリック神学部 1979年3月14日)

[3] 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』12

[4] 「教会の教えによれば、各霊魂は直接神によって創造されたものであって、親から『作られた』ものではありません。教会はまた、霊魂は不滅であると教えています。霊魂は死のときに肉体から分離しますが、消滅することなく、最後の復活のときに、再び肉体と結ばれます。」(カトリック教会のカテキズム366)

[5] 聖イレネオの教えによれば、人間における神の姿とは、その存在論的体質に関連する、(・・・)しかし、「似姿」とは、人間と神の個人的な一致の関係にまでおよび、人は罪の後、聖霊の賜物をとおして修復されなければならない。

[6] 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』13

[7] 「みな子によって子のために創られた」(コロサイ1,16)

[8] 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』22 参照

[9] カトリック教会のカテキズム1998 参照

[10] 第二バチカン公会議 『教会憲章』40

 

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